2012年5月4日金曜日

アナログ派の方もデジタル派の方も多くの回答お待ちしてます。 ある超大御所プロの...

アナログ派の方もデジタル派の方も多くの回答お待ちしてます。

ある超大御所プロの言葉です。






麻雀は誰もがわかるように運の要素が強いゲームだ。将棋や囲碁のように実力差が常に結果に反映されるわけでなく、実力差というものがそもそも明確に表すことができない。



ある程度以上の知識を持つ者同士ならば勝敗は運次第である。

運の要素が大きく働くということは賭博なのだ。



つまり麻雀は賭博であって然るべきで、かけがえのない物が賭かっているからこそ判断に迷いが出たりする。その中でいかに駆け引きを制するか、正着打を打てるかが他人との差が出る部分である。

つまり麻雀の実力差がきちんと出るのは賭博としての麻雀が成立している時なのだ。







長いので多少文章は変えてますが何年か前の大御所プロの言葉です。

みなさんこの意見どう思いますか?



自分は、仮にも競技プロがそんな事言うなよという憤りを感じつつも妙な説得力を感じました。



みなさんの意見聞いてみたいです。







「個人の麻雀に対する哲学の問題」だと自分は考えます。



大御所プロが若い頃と言ったら「麻雀=賭け事」という図式がごく当たり前だった時代。今のようにネット麻雀だとかコンピューター麻雀だとかをゲームとして楽しむ事など望むべくもなかったのだから「麻雀の本質」を賭博に求める考えになるのも自然の流れ。

その大御所プロの言葉は人生の大半をプロとして麻雀の歴史の中に身を置いた中での結論なのですからそれを否定する理由もそんな気もありません。そのプロにとってその結論は自然に得たものなのでしょうから。



私はどちらかというと質問者様に近い考えだと思います。

大御所レベルのプロともなればその一言が麻雀界そのもののパワーバランスを動かしかねませんし「純粋な競技としての麻雀の普及」という観点からは「賭博としての麻雀」は相容れないものだからです。

それに私は競技麻雀もお金を賭ける麻雀もどちらも楽しんでますから「賭博でなければ麻雀の実力差は正しく出ない」とは思っていません。麻雀に限らず損得勘定抜きにして情熱を燃やす挑戦者たちは世の中にはいくらでもいますから。

しかしながら人間はどんな場面でも常に冷静でいられるほど強い者ばかりではありませんから「真の実力はより土壇場に近い境遇に身を置いたときに如実に現れるものだ」という意味ではあながち間違った事を言ってはいないとも思います。感じ方は別として、どこかで質問者様の感性と一致する部分があったから「説得力を感じた」のではないでしょうか。



大御所プロの言葉に対してどのように感じるのかは「哲学」の違いによってさまざまでしょう。

他人の哲学をどうこう言えるほど私は麻雀に精通していませんし、それだけの実績も残していません。

ただ、誰の言葉かは存じませんが自分なんかよりもよほど長く麻雀の世界に身を置いた人の言葉ですからそれなりに意味のある言葉だとは思っています。ひょっとしたらその言葉の裏には「隠れたメッセージ」があるのかもしれませんね。



getreport21 さん>

あなたは相当に「ずるい人」ですね。



他人の意見を否定する時くらい、そんな「架空のキャラクター」なんかに頼らず自分の言葉で語りなさいな。

仮にもあなた、「純粋なゲームとしての麻雀を広めようというNPO法人の運営に携わる人」という立場なんでしょ?








久しぶりに暇なので書き込んでみます。

真剣に打てる絶対条件があれば

別に賭けなくても実力は出ると思うのですが。

賭博というのは現実的に金銭的なダメージが発生し

金のない者は痛みを背負うリスクがあります。

金持ちはどうでしょう?

腐るほど持っていたのなら真剣に打たなくても痛みなんて

少ないかないに等しいと思います。故適当に打つことも

できると思います。

金持ちを潰すレートでやるなら自身もそこに立てる金銭を用意しなければなりません。

何が言いたいかといいますと、勝負する全員が真剣に打てる

条件で打ってもらえばいいことだと思います。

それは場の取り決め次第です。

真剣に打てる条件が賭博なのが現実的で理想的

だから雀荘とうい場があるのではないでしょうか?

圧倒的金持ちは真剣に打ってるかどうかは分かりませんが。

ネット麻雀もゲームの部類ですが上位の卓に混ざれば実力もでるのではないでしょうか?

それと競技(かノーレート)と賭博はどっちもジャンルが違うゲームだと思います。

よって実力差がでるのはフィールドによって各々違うと思います。







下の方

自分のベースを侵されたように解釈したのがいるね

何がそんなに癇に障ったんだろう

言っているそばから己を律する事ができてないのは..はて 誰だろう?



質問の件については真っ向否定できない部分は確かにあるでしょう

まぁ誉められた発言でもないとは思うが

人間ですからね



ぶっちゃけた話ぐらいでいいのではないかな?特に支障はないでしょうよ



補足 (papa氏)

少々書き方が紛らわしかったかな



>誰も止める人もおらんようで

止めてどうこうしようというつもりもないですが

以前違う意味で既にyahooに止められていたんでしょ?その方

同じ事を繰り返すのが好きなのか程度というものを知らないのか

どちらにせよビクともせんスタイルらしいから余計に不思議さんなのですよ

まぁ不思議であることは別にいいってか・・



で 目についたものがあれば野良犬なりに回答しますよ







価値観が同じなら賭けようが賭けまいが麻雀は成立すると思いますけどね。。。



とはいえ、経済レベルが私とは異なるでしょうから、私が経験してきた「賭け麻雀」と大御所の言われる麻雀とでは、景色も異なるでしょうねぇ^^



「プライド」をご自身が賭けて麻雀を打つという考え方は素晴らしいと思いますが、第三者的にそれにどれだけの価値が認められるでしょうか?

武士が髷を落とすのと同等の価値観(共通認識)はあるでしょうか?



残念ながら、長い時間あるいは密度の濃い付き合い、または世間に名が通っていて、「プライド」に一定以上の価値観が認められる状態でなければ、どれだけの意味があるか。。。



例えば、私がノーレートフリーの店に新規で行って「今日は私のプライドを賭けて全力で打ちます」と宣言したところで、誰がどれだけ初対面の人間のプライドに価値をつけてくれるんでしょう?

まして麻雀の中身の伴わないレベルでしたら、更に無意味。

点数計算やスジ・カベの考え方の怪しい人の「麻雀のプライド」ってどの程度の評価でしょう。。。

「今日の麻雀に負けたら、今後一切麻雀牌は握りません」とかなら、「おお~」って思いますけどね。



失うものが何も無い(物質的なものであれ、精神的なものであれ)麻雀に真剣勝負を持ち込めるのはある意味凄いと思いますが、反対側から見れば「その程度?」ともいえるわけで。



歴史・現状、その「賭けるもの」の代名詞がやはり「お金」に例えやすいのは致し方が無いでしょうね。



事実、その御大の発言から展開したこの質問が、反響多く回答が付いているようですので、「影響力」はあるんですね。

でも、私には明日には気にしなくなる程度の発言というか価値観が持てないのですが、良くも悪くもそんなに熱くなる問題なんでしょうか。。。



-----------------kzcywrddさん------------------------

「下の方」を「したのほう」ではなく、「したのかた」と、問いかけと解釈し、勝手に補足します^^

私より古くからこのカテにいらっしゃる実戦派の方ですから、あえて言わなくてもな部分でしょうが、ここ暫くで更に浮世離れが進んでしまった方のことですね。

他の回答もご覧になればわかるでしょうが、周りには誰も止める人もおらんようで。

我が道が「開き直りの道」に。。。

開き直れば、自分を律することは出来にくいでしょう。

間違っているとか偏っているとは髪の毛の先ほども浮かばんでしょうから。。。



閑話休題

正直、デジタル的(特に同じサイト・同じゲームでの基準での)回答って、一つ(一人)いれば、その価値観だか正しい手順だかは一つしかないんだから、別に回答も一つで良いと思う私ですが、実戦主体にされてきた方の回答は、ご自身の「経験」「実績」からの回答になります。

何が言いたいかといいますと・・・

kzcywrddさん。もっと回答に回ってくださいな^^







負けて失うのは、金銭ばかりでは無いと思います。

大会などでは、負ければ時間や機会を失うでしょう。

「来年でも、他の大会でもいいや」と思えれば別かもですが。



金銭、機会、時間、名誉(プライド)、単純な勝ち負け、充足感、結果、、

何に重きをおいているか、じゃないでしょうか。

当人にとって大事なものがかかっているなら、プレッシャーになるでしょうし。

揺れない強い心も必要だと思います。







本文中の「つまり麻雀の実力差がきちんと出るのは賭博としての麻雀が成立している時なのだ。」は、当然ではないでしょうか。



というのは、何も賭かっていない状況下では、真剣に打つ人と適当に打つ人に分かれるからです。

私は、何も賭かっていない状況では、ツキを無駄使いしたくないので、出来れば負けておきたいとさえ思います。そして、そう考える博打打ちは多くいるはずです。博打打ちはツキを大切にしたいと考えますので、ツキの浪費を嫌います。

一方、何も賭かっていなくても真剣に打つ人もいます。

ということは、何も賭かっていない状況での勝負では実力通りの結果は出ないことになります。



※妖精使いのお姉さんが自分の言葉で語らないのは、自分自身はすでにギャンブルに興味を持っているからだと思います。最近、フリー雀荘についての質問にも回答を寄せていたり、白ポッチは一発ツモでオールマイティになることを知っていたりと、心はもうフリー雀荘への興味を抑えきれないでいるはずです。

お姉さんはもうすでに、自分の言葉でギャンブルを否定できない心境になっているのだと思います。







運が大きく左右することに否定はしません。

しかしその日その日で運量は違いますし半荘ごとにも違います。

良い運をキープすることや悪い運を変えることも実力・技術の分野だと思います。



「賭ける」ことにより迷いや汚い面も出てきて麻雀にならないこともあるでしょう。

逆に賭けないことにより無謀な打牌が目立ち麻雀にならないこともあるでしょう。



本当に麻雀が好きで強くなりたい人なら賭ける賭けないなんて2の次だと思います。

50円で打てる牌が100円で打てないなんておかしな話です。



極端に言えばノーレートで打つ牌も人生がかかった局面の打牌も同じであるはずなんです。

失敗して大きな痛手も負うでしょうが、それくらいしなきゃ麻雀強くなれません。







私も麻雀歴だけは無駄に長い、ある意味大御所ですが(?)。



「賭けることにより失うという可能性~云々」に一理あると思うし納得もいきます。

しかし、あえて逆に考えて、賭けなくても失うものを心に秘めて(わざわざ秘めなくても良いけど)私は戦えるし、

それを失いたくないための焦りも持てる。



賭けない麻雀にこそ「失う」恐怖を持って戦える人が実力者とも言えるのでは。



まあ現実的に言うと、賭けない麻雀にそういう人がほとんどいないし、一人相撲になるのが落ち。

だから賭けないと高いレベルの麻雀に出会えなかったりする。



まだまだ、まだまだまだまだまだ、賭けない麻雀に日があたる事は無いでしょう。





追伸:暗に自分は実力者だといっているわけでは・・・あります。



しかし、実力者がイコール強いとは限りません。

強くなくても実力者といわせてください。



・・・・・・・ 実力者じゃないです。すいません ・・・







これが大御所のセリフですか・・・。緊張感も何もないですね。

プロ、それも顔を知られているプロなら、対局の際には常に注目を浴び、打牌は厳しい視線に晒されるものです。一打一打に所属するプロ団体の威信、プロの尊厳が賭けられていると言っても過言ではないでしょう。

それなのにピリッとした打牌ができないというのであれば、これは明らかに緊張感を欠いています。



さらに言えば、たとえ何もかかっていなくても、麻雀打ちなら多かれ少なかれ自分のプライドを賭けて打つものです。勝って嬉しい、負けて悔しい、だから打つんですよ。何も賭けていなければ別に勝っても負けても良いなどというのは麻雀を愛する人間の言うことではありません。

仮に世の中の他の打ち手全てが、金を賭けなくては真面目に打てないのだとしても、自分はただ己の誇りとして常に最高の打牌を求める、仮にもプロとして打っているならこのくらいは言って貰いたいですね。



補足について。

たとえ賭けていない勝負であっても勝ちたい、負けたくないというプレッシャーは感じるものだし、感じてしかるべきです。

賭けているときといないときで麻雀の強さは変化しないし、変化するのは弱者です。実力者ならそんなことを言うべきではない。







※補足に受けました



>麻雀は誰もがわかるように運の要素が強いゲームだ。

>将棋や囲碁のように実力差が常に結果に反映されるわけでなく、

>実力差というものがそもそも明確に表すことができない。

>ある程度以上の知識を持つ者同士ならば勝敗は運次第である。



ここまでは同意。

麻雀は囲碁や将棋と違って、自分の打ちたい手が必ず打てるわけではないので

運の要素が強くなるのは必然です。



>運の要素が大きく働くということは賭博なのだ。

>つまり麻雀は賭博であって然るべきで、

>かけがえのない物が賭かっているからこそ判断に迷いが出たりする。

>その中でいかに駆け引きを制するか、

>正着打を打てるかが他人との差が出る部分である。

>つまり麻雀の実力差がきちんと出るのは賭博としての麻雀が成立している時なのだ。



これは意味がわからん。

物がかかってなければ正しい手が打てないというのは違う。

そんなのは個人差でしかない。

逆から言えば、囲碁や将棋でも金がかかれば別の意味で実力差が出るでしょう。



<ここから補足受け>

では、将棋もギャンブル中心の世界で、失うものが大きかったらどうなるか。

羽生マジックのような、大きなリスクを背負った手は出にくくなるでしょう。

ギャンブル性を排除し、スポーツ性を高めることによって

競技のレベルを高めることはできるのです。



またこの発言は「麻雀は結局は精神力の勝負」という位置づけですから、

技術の向上という視点が欠落しています。

それでは、競技としての進歩は止まってしまいます。



失うものが大きいという心理状態でないと実力差が出ないというのは

麻雀はギャンブルの世界を出ることはないという解釈になりますから、

結局麻雀はアングラの世界を抜け出せなくなります。



それでいいのであれば私もこれ以上追及はしませんが、

仮にも麻雀界全体がギャンブル性を薄め、スポーツ性を高めようとしている

(と私には映りますが)現状で、この発言は適当ではないと考えます。







闇の妖精 シャドーネ:



どこの大御所なのよ。勘違いも甚だしいわ。

賭けているから迷いが生まれる?その迷いに克つのが麻雀?一応もっともらしいことを言ってるけど、その理屈で行くと、「賭けていない時は適当な麻雀を打ってしまう」ってことじゃないの。そんなスタンスでよく競技プロが務まるものね。

麻雀は、自分との闘い。自分と闘うのに、わざわざ賭博の世界に身を投じ、自分を追い込まなければ本気を出せないような弱い人間、私は到底認められないわね。賭博など用いなくても、己を律することができて初めて、麻雀界の大御所と呼ぶにふさわしい人物となれるんじゃないのかしら?



簡単にまとめると、この大御所、『8月30日にならないと宿題のできない小学生』レベルね。

己を律するどころじゃないわよ。有り難がるには到底及ばない、未熟者の妄言と評価するわ。







ごもっともです。でも麻雀にかぎらず世間一般に広く見られる事象だと思うけどね。麻雀や賭博ということばをほかのことばにおきかえてやれば・・・。たとえば仕事やプレッシャーとおきかえてもわたしゃそんなに違和感はないけどね)まあ、世の中でかけがえのないものとしての共通項としてお金が動くわけで、それに嫌悪感を覚える人はいるんだろうけどね。みなさんよっぽどきれいな池の中にお住まいで・・・と余計なことも思ってしまうけど。プロがそういったというところに世の中に披露する価値があるんでしょうね。単に字面だけでとらえる人にはなんの意味もないんでしょうが。まあ、麻雀て世間ではそんなもんですから。







個人的な意見であるが、説得力の薄い稚拙な言葉である



この言葉は、「例えば牌を持っている者とその友人が集まって、何も賭けなくとも勝つだけで嬉しい、単純に麻雀と言うゲームを楽しみたい、と考えている者がいない」と言う前提の言葉である

そして、そう言った人間にいきなり必要もないのに、金を賭けろ、何かを賭けろと強要している部分が大きく、説得力を感じられない。



確かに多少なりとも金銭などを賭けることで真面目にやる気を出す、本気で考えるようになるだろう。

しかし、子供の頃を思い出して欲しい。

じゃんけん一つ、あるいは友達とやった競争するようそのある遊びで、何か手に入るものはない、後に引かない一時の勝利が楽しかった頃があっただろう。

要するに物質的・金銭的な損得がなければ楽しめない、単純に麻雀が出来るだけで楽しいって気持ちがない人のための言葉であり、言っちゃうなら、頭が固い。



もっと極論を言うなら、「麻雀プロのあなたに勝負を挑みます。相応に大きな物を賭けます」と挑戦状を書き、「種目を伝えてない、麻雀と言ってない」と言う理屈の元に仮にぷよぷよ(一応、運の要素があるのでこれを例にしています)で勝負をします。

それでその人は納得するのだろうか







普通に小学生レベルかと







まさにその通りだと思います。なにもかかってない麻雀ほどつまらないものはない。緊張感にかけると思います。

0 件のコメント:

コメントを投稿