2012年5月6日日曜日

五・七・五・七・七 以外に短歌の定義やきまりってありますか。

五・七・五・七・七 以外に短歌の定義やきまりってありますか。







ど素人ですが、<音数律>のことを仰ってますので、俳句との対比で。ただし、短歌といっても範囲が広いので、<和歌>またはそれを意識した<近代短歌>に限定して。



目にさやかに分かる違いは、<音数律><季語の有無><切れ字の有無>は分かり易い所ですが、見えにくい<内的性質>が随分違うかと。



(1)読みの暗黙の<規制>



一般的に<和歌>は『古今集』の達成した<国風文化>の伝統意識を受け継ぐものゆえ、<漢語>(音読み)の言葉の使用は、極力避けられます。もっとも、近代になってからそこを逆手にとって「新聞紙」なんて単語を入れられた作もありますが、一般的には<和語><訓読み>が基本。「白鳥はかなしからずや・・・」でも、単に<音数律>たけなら「ハクチョウ」でも「しろ(ら)とり」でもいいんでしょうが、やはり後者かと。

対して、俳諧・俳句は、和歌に厳しく屹立するように発達してきた経緯がありますゆえ、むしろ<音読み><漢語>を積極的に取り入れます。「大河を前に家二軒」の「大河」「二軒」でもそうですし、芭蕉の「病雁の」でも、伝統的に「やむかり」と読んできましたが、今は「ビョウガン」と読むことの正当性が論証されていたのでは無かったかと。

もちろん、これには、<和歌>と<俳諧・俳句>の享受層の問題も絡みますが、煩瑣ゆえ、ここでは触れません。



(2)用語の暗黙の<規制>



一般的に<和歌>は<雅言>(伝統的に好まれてきた奥ゆかしい、趣深い美しい日本語)を好みます。たとえば「花橘」なんて語、言ってしまえは、<ツバキ>ですが、雅言を好む<和歌>の世界では圧倒的に前者かと。そのための、近世期以降など『雅言集覧』なんて辞書が重用されたかと。

一方、<俳諧・俳句>は、そのような<雅>の世界とは厳しく切り結ぼうとする<問題意識><美学>から、<俗語>(読んで字のごとく、<美>とは関係ない筈の日常的な言葉)を積極的に取り入れます。俳句の方が、一面<庶民的>と評される一面かと。まあ、私的には、この違い、<囲碁><将棋>のイメージに繋がるものもあろうかと。したがって、こちらでは、むしろ、『俚言集覧』などの方が重用される面もあるでしょうねぇ。やはり芭蕉の「蚤虱(ノミシラミ)馬のしとする」とか、雅やかな<和歌>中心の世界からは<驚天動地><絶句>の語彙かと。



(3)内容の暗黙の<規制>



これは、難しいですが、ど素人の、相も変わらぬ無責任な軽いノリでいくと、<和歌>の中心はあくまで、<有心>で、悲恋に代表されるような、<もの悲しい思い>や<花鳥風月><雪月花>と言われるように四季の花や月・雪の美を<めずるような美の心>。『万葉集』は、必ずしもそれだけではなかったのですが、第一勅撰集の『古今集』の登場によって、<有心>の方向性が決定されてしまいます。ただし、西行や定家によって<無心>の可能性も開かれ、枯れた<美>を評価する方向性も<和歌>は内包します。また<連歌>などもあって、殊に<無心連歌>の<問題意識>は、<俳諧>に受け継がれていきます。





俳諧が、<滑稽>や<侘び><寂び>などを全面に出してくるのも、あくまで『古今集』『源氏物語』に代表されるような<有心>の伝統があってのことではないかと。したがって、近代短歌・現代短歌の<革新>が成されるまで、<和歌>には<読み><語彙><テーマ><美意識>など、目に見えない厳しい<暗黙律>があったかと。この、絶対に<止揚>されないはずの2つの<美的世界>を融合しようとしたのが芭蕉・子規ではなかったかと。これは、あくまで、ど素人の無責任な言。すべて、専門家からは、顰蹙・噴飯もののご回答です。

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