なぜ曹操が孫子の兵法の注釈を残したか。
ただ彼の趣味だけではないと思いますね。
大きな国になりつつあって、政治も、戦いも応用がきく人材を育てたいという思惑もひょっとしたらあったのかもしれません。
指針書だけにとどまらず、人生書としても、自己啓発としても、読めたと思います。
恐らく曹操の下にいた部下はほとんどが書物に目を通していたんではないでしょうか。
どうしてか?トップの姿勢を部下は敏感に察知するからです。
曹操の真の目的は、部下それぞれに考えさせる力を養ってほしい、というのを日ごろから厳しく言っていたように思います。
もし建国者である彼がいい加減な姿勢であったら、三国で一番先に滅んだと思いますが、どうでしょうか。
そう言う側面もあるでしょうけど、曹操の個人的な資質がやはり
影響していると思いますね。下でも書かれている通り、彼は詩の
世界でも、大きな影響を与えた人物として名を残しているだけで
なく、自ら詩人として作品を現代に伝えています。
また攻城兵器やそれに対抗する兵器の図面を自らひき、囲碁も
当時の名人級と良い勝負ができる程の腕前。また酒の醸造法
にも興味を持ち、文書にまとめ上奏しています。ちなみに醸造法
は日本酒の作り方ともよく似ている、との話もあります。
これは曹操個人の性癖で、興味を持ったら自ら体験し、深く掘り
下げないと気が済まなかったのだと思います。
孫子は恐らく、この戦乱の世を生き抜くためにどうしたら良いのか、
と言う部分を考えた末、実践に最適な書物と判断したのでしょう。
彼の注釈を読むと自らの実体験を交えた話も多く、こう言う状況
の時は自分はこうした、とか限定条件下であればこう言う対応の
方が良い、とか孫子原文とは逆のこととかを書いていたりもします。
まさしく戦場で兵を如何に動かし、勝利を如何に掴むか。その点
に腐心していた曹操にとっては格好のバイブルだったでしょう。
そしてそれを深く掘り下げていく内に、注釈として後世に伝わった。
真の目的がどうだったか分かりませんが、孫子の内容を読み注釈
をつけてる時の曹操はイキイキとしていたでしょうね。
当時は兵法書などに注釈を付けるのが知識人の中で流行っていたらしいですね。
曹操は三国時代の君主の中でも突出した教養人であった事が大きな理由であったと思います。中華文明における教養とは、大雑把に言えば”文”と”史”への関心と保護であったと思います。
曹操には詩作を好んだという文への関心が強かったイメージがあります。文学史上でも曹操・曹丕・曹植を三曹と呼んでいますし、「矛を横たえて詩を賦す」などと云われています。また御質問にある通り孫子十三篇に注釈を付けたりなど歴史への重要視も曹操には顕著であったとされ、特に光武帝に倣おうとしたとされます。官渡の戦いの後に袁紹の幕営にあった文書に眼を通さずそのまま焼き捨てて諸将を安堵させた逸話などは光武帝も行った事です。光武帝も文才のあった人なので、そうした面にも惹かれたのではないかと想像しています。また孫子が現在まで伝わったのは曹操が保護した為とも言われ歴史の保護という知識人としての基本の役割を自覚していた事が見えてきます。自らは帝位に就かなかった事も簒奪者として歴史に残る事を恐れたという意見の人もいますので、中華文明における歴史の意義・位置づけを理解していたのでしょうね。
蜀漢に史官が置かれなかった事と比べると文・史への関心はは雲泥の差と言ってよく、そうした曹操であったから部下達への啓蒙というか推奨はあったかもしれませんね。史書には銅雀台で詩などの発表の宴が頻繁に行われたことが出ています。
後の王朝などを見ても建国者の性格・思想は王朝の基本理念と重なる事が多いように見えますので、三国が魏によって統一されていたら、文治主義の国になっていたかもしれません。
確かに現在の孫子の兵法は曹操がアレンジしたらしいですね
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